SECIモデル批判を論文で確かめる——野中はどう答えたか

日本で「SECIモデル」は、批判とセットで語られることがほとんどありません。経営学の教科書にも企業研修の資料にも、あの4象限の図だけが載る。疑う余地のない定番として流通しています。

ところが論文の世界では、風景が変わります。1990年代の後半から今日まで、SECIモデルは繰り返し批判の的になってきました。「証拠が足りない」「そもそも暗黙知の定義が違う」「日本の会社の話を世界共通の理論に見せている」。批判は一度きりではなく、反論と再反論が続いています。

この記事は、その論争の見取り図です。批判をずらりと並べる一覧表ではありません。**誰が、どの論文で、何を、どういう理屈で批判したのか。野中郁次郎はそれにどう答えたのか。そして今も決着がついていない点はどこか。**この3つを、出典をつけて順に追っていきます。

読み終えたときに手元に残るのは、「SECIモデルは正しいか、間違っているか」という白黒の答えではありません。「どこまでは信じてよくて、どこから先は自分で確かめるしかないのか」という線引きです。レポートや卒論で批判的検討を求められている人にも、社内のナレッジ共有がうまく回らない理由を探している人にも、その線引きが一番使えるはずです。

まず結論から——SECIモデルの批判と限界は4系統、野中は2009年に応答した

最初に全体像を置きます。SECIモデルへの批判は、大きく4つの系統に分けられます。

① 概念の批判(暗黙知の定義がすり替わっている)
ポランニーの言う暗黙知は「言葉にできない知」でした。野中の暗黙知は「まだ言葉にされていない知」です。この違いを認めると、表出化(暗黙知→形式知)が「暗黙知をまるごと形式知に移し替える」工程としては原理的に成立しなくなります。

② 証拠の批判(実証的な裏づけが弱い)
最も体系的な批判は、スティーブン・ゴーレイが2006年に『Journal of Management Studies』に発表した論文です。4つのモードのどれについても、「もっと単純な説明では片づかない証拠」は見つからない、という指摘でした。

③ 後続研究の批判(結果が揃わない)
SECIを検証しようとした後の研究でも、同じモードがプラスに出たりマイナスに出たりします。S→E→C→Iというスパイラルの順序そのものを定量的に検証した研究は、確認できた範囲で見当たりません。

④ 文化の批判(日本という環境の産物ではないか)
グリスビーとホールデンが2003年に、SECIは日本の社会・組織文化に深く埋め込まれており、普遍的な「モデル」ではなく「地図」として扱うべきだと論じました。

そして野中側の応答です。野中郁次郎とゲオルク・フォン・クロー(Georg von Krogh)は、2009年に『Organization Science』で批判に正面から答えました。暗黙知と形式知を「対立する二分法」から「連続体の上で程度によって区別されるもの」に置き換え、暗黙知の定義に「完全には言語化できない」という但し書きを加えています。批判をかわしたのではなく、批判を取り込んで理論を作り直したかたちです。

ここが大事なところなので、先に釘を刺しておきます。**SECIモデルは「間違いだと実証された」わけではありません。「正しいと実証されてもいない」というのが現在地です。**この2つは、まったく別のことです。批判の中心にいるゴーレイ自身が言っているのは「誤りが証明された」ではなく「曖昧さのない証拠がない」であり、しかも彼は表出化については事例による暫定的な支持を認めています。

そして野中側の2009年の応答も、新しい実証データを出したものではなく、理論的な応答です。つまり論争は、実証で決着したのではなく、決着しないまま両側が精緻になった、という状態にあります。

30秒で前提の確認——SECIモデルが主張していること

SECIモデルは、野中郁次郎が1994年に『Organization Science』で体系化し、1995年の『The Knowledge-Creating Company』(邦題『知識創造企業』)で広く知られるようになった理論です。

主張はシンプルです。組織の知識は、暗黙知と形式知(言葉・数式・図で表せる知識)が次の4つのモードを回りながら生まれ、増えていく。

この4つが個人→集団→組織へと渦を巻くように広がっていく。これが「知識創造スパイラル」です。

この記事で扱うのは、あくまでこのモデルへの批判です。モデルの成り立ちや4モードの詳しい説明、場(Ba)や生成AIとの関係は、主記事のSECIモデルとはにまとめてあります。ただし、以下は前提を細かく知らなくても読めるように書いています。

批判①——暗黙知の定義がすり替わっている(ツォウカス・大崎ほか)

この論点を最も鋭く突いたのは、ハリディモス・ツォウカスが2003年に発表した論考「Do we really understand tacit knowledge?」です。

ポランニーの暗黙知と、野中の暗黙知は別物

暗黙知という言葉の出どころは、化学者から哲学者になったマイケル・ポランニーです。彼の出発点になっているのは、人は語れることより多くのことを知っている、という観察でした(『暗黙知の次元』高橋勇夫訳、ちくま学芸文庫)。

ここを丁寧に読むと、ポランニーの暗黙知は「言葉にすることができない知」です。自転車の乗り方を全部言語化しても、それを読んだ人が自転車に乗れるようにはならない。原理的に、言葉の外側に残る部分がある。

一方、野中のSECIモデルにおける暗黙知は、表出化によって形式知に「変換」されます。つまり暗黙知は「まだ言葉にされていない知」として扱われている。日本でこの違いを繰り返し指摘してきたのが、東京経済大学の大崎正瑠です。

大崎は2009年の論文「暗黙知を理解する」(『人文自然科学論集』127号)で、こう書いています。「ポラニーの『暗黙知』を野中の『暗黙知』に置き換えると、このような『知識のスパイラル現象』(暗黙知→暗黙知→形式知→形式知)は不可能である」(引用は原文の表記のまま。大崎は「ポラニー」と表記しています)。理由は身もふたもなく明快で、「『暗黙知』が『暗黙知』であるのは、文字通り表出も伝達もできないからである」。

2017年の続編「暗黙知を再吟味する」(同140号)では、4つの変換を1つずつ点検し、暗黙知→形式知は伝達不可能、形式知→暗黙知は経験なしには不可能だと論じたうえで、経営学の暗黙知理論はポランニーの暗黙知理論と噛み合わない、と結論しています。

野中とポランニーの違いを一言で押さえるなら、大崎が引いているこの整理が一番わかりやすい。野中が「まだ言葉にされていない知識」を暗黙知と考えるのに対し、ポランニーは「言葉にすることができない知識」を暗黙知と考えた。

イギリスとドイツからも、同じ趣旨の批判が出ている

面白いのは、この指摘が一国のローカルな異論ではないことです。

ツォウカス(ギリシャ出身の組織論研究者)は、野中・竹内の「変換を待つ知識」という暗黙知の読み方を、はっきり「誤り(erroneous)」と書きました。彼の主張はこうです。暗黙知と形式知は連続体の両端ではなく、同じコインの裏表である。もっとも明示的な知識でさえ、暗黙知に支えられている。だから暗黙知は「捕獲」も「翻訳」も「変換」もできず、行為の中で顕れるだけだ。

では新しい知識はどこから生まれるのか。ツォウカスの答えは、暗黙知が形式知になる瞬間ではなく、熟練した実践(プラクシス)が社会的なやりとりを通じて、新しい仕方で区切り直されるとき、というものでした。

ドイツからも同じ趣旨の批判が出ています。ゲオルク・シュライエッグとダニエル・ガイガーが2000年代前半から繰り返し展開してきた議論で、2007年には『Organization』誌に論文として発表されています。日本語では慶應義塾大学の榊原研互が2006年『三田商学研究』49(4)で、彼らの2005年の英語論文を中心にこの議論を詳しく紹介しています。主張は、暗黙知は形式知に変換できない、両者はまったく異なるカテゴリーに属する、というもの。そして鋭い一撃がこれです。もし野中らの主張が正しいとすれば、彼らのいう暗黙知はポランニーの意味での暗黙知ではなく、まだ発見されていない潜在的な形式知にすぎない。

ただしシュライエッグらは、暗黙知の重要性そのものを否定しているわけではありません。暗黙知は「変換の対象」ではなく「能力マネジメントの対象」とすべきだ、というのが彼らの提案です。なお同じ号には、同じくドイツ語圏のギュルデンベルクとヘルティンクによる野中批判(東洋と西洋の知識概念を統合したという野中の枠組みを哲学的に再検討したもの)も併載されています。両陣営は知識概念の定義をめぐってドイツ語圏で論争を続けており、その論点がまとめて英語圏に持ち込まれたかたちです。

この批判が効く理由

証拠が足りないという批判は、証拠を集めれば解決する可能性があります。しかしこの概念批判は種類が違います。「起きていない」ではなく「原理的に起こりえない」と言っている。

この一点を認めると、表出化は「暗黙知をまるごと形式知に移し替える」工程としては成立しなくなります。残るのは「一部だけ言葉になり、残りは落ちる」という不完全な変換です。内面化も同じで、言葉が暗黙知になるには結局実践が要るなら、「読めば身につく」話ではなくなる。SECIモデル批判の中で、最も理論的なダメージが大きいのがこの系統です。

批判②——証拠が弱い(ゴーレイによる実証面の点検)

SECIモデルの実証面を最も丁寧に解体したのは、スティーブン・ゴーレイが2006年に『Journal of Management Studies』43巻7号に発表した論文「Conceptualizing Knowledge Creation: A Critique of Nonaka's Theory」です。

抄録の要旨はこうです。4つのモードのうち3つは「もっともらしく見える(appear plausible)」が、どのモードも「より単純に説明できない証拠」には支持されていない。枠組みは本質的に暗黙的な知識を扱うことができず、何を知識と呼ぶかが、あまりに主観に寄っている。ゴーレイはさらに、ジョン・デューイに依拠した代替の枠組み(非反省的な行動=暗黙知、反省的な行動=形式知)を提案しています。批判して終わりではなく、置き換え案まで出したところが、この論文が繰り返し参照される理由でもあります。

その前年、ゴーレイはナースとの共著論文「Flaws in the 'Engine' of Knowledge Creation」(2005年)で、もっと細かい解剖を行っています。ここが批判の本丸なので、順に見ていきます。

野中ら自身が行った唯一の量的調査に対する疑い

SECIモデルの実証的な裏づけとして、野中ら自身の手による量的調査が1つあります。野中・ビョシエール・ボルッキ・紺野による1994年の調査(『International Business Review』3巻4号)で、日本人男性の中間管理職105名に、185項目の質問紙を配ったものでした。

ゴーレイらの指摘は2つあります。

ひとつは測り方です。この調査は、知識創造の「内容」を、その活動に投入した時間の量で測っていました。ゴーレイらはこう書きます。**SECIはプロセスのモデルなのだから、この調査が仮説を検証したという主張は受け入れられない。**何をどれだけの時間やったかは、その活動がどう進んだかとは別の話だ、ということです。

もうひとつは尺度の出所です。ゴーレイらは、当時利用できたデータが「意味情報創造(semantic information creation)」研究のものに限られていたことから、使われた尺度は実質的にそこから来ていると結論づけています。SECIの4モードを測るために新たに作られた尺度ではなかった、という指摘です。

さらにゴーレイらは、この調査の因子分析の結果に、確認的因子分析で通常求められる分散説明率60〜70%という基準を当て直しています(分散説明率とは、その質問群がどれだけ「同じひとつのもの」を測れているかの目安です)。すると次のようになりました。

モード 分散説明率 基準に照らすと
共同化 73% 満たす
連結化 64% 満たす
内面化 56% 満たさない
表出化 51% 満たさない

ここは誤読されやすいので、はっきり書いておきます。**この数字はゴーレイらが標準的な基準を当てて再検討した結果であり、野中ら自身は「4つのモードの存在を検証した」と結論しています。**同じデータに、どの基準を当てるかで評価が割れている、という状態です。

有名な事例は、証拠として持ちこたえるか

SECIモデルの説得力の多くは、有名な事例に支えられています。ゴーレイらはそれを一つずつ点検しました。

松下のホームベーカリー(共同化の例)。ホテルのパン職人に弟子入りして「ひねり伸ばし」を体で覚えた、という有名な話です。ゴーレイらの反論は技術的なものでした。パンの出来を左右していたのは捏ね方そのものではなかった、つまり職人に弟子入りしたから解けた問題とは言い切れない、と。ただし「ひねり伸ばし」という言葉が生まれ、それが機械の設計に落ちたこと自体は、暗黙知が言葉になった例(=表出化)として部分的に認めています。

ホンダ・シティ(表出化の例)。「自動車進化論(Automobile Evolution)」という言葉から新しい設計が生まれたという話については、「あるのは逸話だけ」。

連結化については、「実証的な支持も、明確な記述さえもない」。

内面化の「embodying(体化する)」という言葉については、メタファーであって意味がはっきりしない、と指摘しています。

総括はこうです。4つのモードのいずれについても、曖昧さのない証拠はまったくない。事例証拠は表出化に暫定的な支持を与えるのみである。(2006年の論文が「4モードのうち3つはもっともらしく見える」と書いているのは見た目の説得力の話であって、証拠があるという話ではありません。)

繰り返しますが、ゴーレイは「4モードすべてを否定した」のではありません。表出化については限定つきで支持を認めている。批判を引用するときは、この限定まで含めて書くのが誠実なやり方です。

「正当化された信念」への疑い

もうひとつ、ゴーレイらが強く問題にしたのが、知識の定義です。

哲学の伝統では、知識は「正当化された真なる信念」と定義されてきました。野中の理論はここから「真なる」を外し、知識を「正当化された信念」とし、その正当化は組織にとっての価値によって行われるとしました。ゴーレイらはここに噛みつきました。それでは**「知識」とは、権限を持つ者が承認したアイデアと計画のことになってしまう。**

そして、こう続けます。権威が知識の審判なら、我々はいまだに地球が宇宙の中心だと思っていただろう。

言い方は挑発的ですが、指している問題は現実的です。組織が「これは知識だ」と認定する仕組みが、そのまま知識の定義になってしまうと、上が価値を認めない知識は最初から知識として数えられなくなる。これは後で見るように、現場で起きていることとぴったり重なります。

引用1,000件超に対して、批判は6件

ゴーレイらの論文には、論争そのものの構造を示す数字も出てきます。

野中・竹内の1995年の著書は、1995年から2004年10月までにISIのデータベースで1,000回以上引用されていました。一方、2002年12月までの被引用を対象に、抄録に批判的な語を含むものを数えたところ、わずか6件でした(集計期間が異なるのはゴーレイらの原文のとおりです。粗い数え方ではあるものの、桁が違います)。

つまりSECIモデルは、多くの人に使われながら、その間ほとんど検証されていなかった。批判されすぎたのではなく、批判されなさすぎたのです。

批判③——後続研究でも結果が揃わない(シュルツェ&ヘーグルほか)

SECIの各モードを実際に測ろうとした研究は、その後いくつか出ています。ただ、結果は揃っていません。象徴的なのが、シュルツェとヘーグルが2008年に『Research Policy』に発表した研究です。

33社を対象にしたこの研究では、共同化と内面化が製品アイデアの新規性にプラスに効いた一方で、表出化と連結化はマイナスに効いていました。

つまり、暗黙知を言葉にして体系化するほど、出てくるアイデアの新しさは下がっていた。SECIモデルが「知識が豊かになっていく回路」として描いたプロセスの後半が、少なくともこの文脈では逆方向に働いたことになります。

同じ2人が2006年に『Journal of Management』に出した研究(新製品開発プロジェクト94件・成果指標は「新製品の成功」)では、さらに厄介な結果が出ています。**同じモードが、局面によって正にも負にもなる。**共同化はコンセプト段階では成功にプラス、開発段階ではマイナスでした。

ベセラ・フェルナンデスとサバーワルが2001年にNASAケネディ宇宙センターの159名を対象に行った研究でも、4モードの効き方はきれいには揃いませんでした。

ここでもうひとつ、押さえておくべき空白があります。S→E→C→Iという順序、つまりスパイラルそのものを定量的に検証した研究は、確認できた範囲では見当たりません。むしろ、SECIを最も本格的に質問紙化した2019年の研究(ファルネーゼら、後述)自身が、スパイラルの動きに実証的な裏づけを与えるには縦断的な調査設計が必要だと、今後の課題として書いています。SECIモデルの一番の売りである「動き」の部分が、まだ実証の対象になっていないということです。

そしてこの状況は、SECIを使おうとする側の研究者自身も認めています。ファルネーゼらが2019年に『Frontiers in Psychology』に発表した論文——SECIを測れるようにしようという趣旨の研究です——の冒頭で、著者たちはこう書いています。

このモデルは大部分が逸話的証拠に基づいており、堅固な実証的基盤を持たない。SECIの予測妥当性を検証した研究はごくわずかである。

批判者ではなく、モデルを使おうとしている側がこう書いている。ここは引用する価値のある一文です。ただし注意点があります。この研究自体も、SECIの4モードの構造を統計的に裏づけたものではありません。

もうひとつ、ミッチェルとボイルが2010年に『Journal of Knowledge Management』で行った研究も見逃せません。知識創造の実証研究63本の測定手法を分類したこの論文は、その過程で、知識創造をプロセスとして定義することと、プロセスとして測定することのあいだに相関がないと報告しています。プロセスだと言いながら、プロセスとして測っていない。ゴーレイが1994年の調査に投げた「内容 vs プロセス」の批判が、分野全体の傾向として確認されたことになります。

批判④——日本の産物ではないか(グリスビー&ホールデン)

文化の観点からSECIを問い直したのは、グリスビーとホールデンが2003年に『Knowledge and Process Management』に発表した論文です。

彼らの主張はこうです。SECIモデルは、何よりもまず日本という環境の産物である。4つのモードは、日本の社会的・組織的な文化への埋め込みを参照してはじめて理解できる。だから普遍的に適用できる「モデル」ではなく、「地図」として扱うべきだ。

たとえば共同化。上司や先輩と長い時間を共有し、飲みに行き、背中を見て覚える。これが成立するには、長期雇用や、同じ場所で長時間働く前提や、暗黙のうちに序列が共有されている状況が要ります。それは理論の条件ではなく、日本の職場の条件です。

同じ方向の検討は、ロシアの文脈でも行われています。アンドレーワとイヒルチクが2011年に同誌で発表した理論分析は、「原形式のSECIは実証的検証に抵抗する」と述べています。彼女たちの狙いはSECIの否定ではなく、実証できる形に分解し直すことにありました。

ただし、ここには大きな注意書きが必要です。文化的な批判はいずれも理論的な分析であり、「日本以外では成立しないことが実証された」という研究ではありません。「日本の文脈と結びついているのではないか」という問題提起であって、他国での不成立を示すデータが出たわけではない。

そのうえで、この批判の実務的な含意ははっきりしています。SECIをそのまま持ち込むのではなく、自社の条件——雇用の長さ、場の共有のしかた、上下の距離——に翻訳してから使う必要がある、ということです。

野中はどう答えたか——2009年の理論修正

批判に対する野中側の正面からの応答は、野中郁次郎とゲオルク・フォン・クローが2009年に『Organization Science』20巻3号に発表した論文にあります。タイトルからして、副題に「Controversy and Advancement(論争と前進)」と入っている。批判があることを前提にした論文です。

修正の中心は2つです。

**① 二分法から連続体へ。**暗黙知と形式知は対立する2つのカテゴリーではなく、連続体の上で概念的に区別されるものだと再定義しました。つまり程度の問題である、と。これは「両者は完全に異なるカテゴリーだ」というシュライエッグらの批判を、正面から受け止めた変更です。

**② 「完全には言語化できない」を明記。**暗黙知の定義に、この但し書きが加えられました。ポランニーの読み方が違うという批判に対して、定義を寄せたかたちです。

ここで評価が分かれます。「批判を無視せず理論を作り直した」と見るか、「批判をかわすために定義を緩めた」と見るか。

はっきりしているのは事実関係のほうです。この2009年の応答は「Perspective」欄に掲載された理論的な論考であり、SECIを新たに検証した実証研究ではありません。

では、この修正で論争は収まったのか。ハジミカエルとツォウカスが2019年に『Academy of Management Annals』で行ったレビューを見ると、そうではないことがわかります。このレビューは、暗黙知に関する研究171本を「変換」「相互作用」「実践」という3つの見方に分類したものです。野中は変換派の代表で、この派が最大勢力(66%)を占めています。しかし残りの3割強は、変換をそのままの形では認めていません。相互作用派(23%)は、暗黙知と形式知が変換しうること自体は認めるものの、それは一定の条件下でのみ成り立つ限定つきの変換だと考えます。実践派(11%)にいたっては、暗黙知と形式知を切り分けられるという前提自体を受け入れていません。

つまり2009年の修正によって、変換派の内部での説明はより丁寧になりましたが、変換を無条件には認めない研究者との溝は、そのまま残っています。論争は終わっていません。

それでも使われ続ける理由——SECIモデルは「古い」のか

これだけ批判があるなら、SECIモデルはもう古い理論なのか。そうはなっていません。たとえば早稲田大学の入山章栄は、2024年3月の『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』連載「世界標準の経営理論」で、SECIを知の創造をもっとも深く説明したほぼ唯一の包括的理論と位置づけています。

ここまで批判を並べてきた後にこう書くと矛盾しているように見えるかもしれません。しかし矛盾ではありません。理論の役割が2種類あるからです。

ひとつは「予測する理論」。条件を入れれば結果が出る。検証できるし、外れたら捨てられる。

もうひとつは「見るための理論」。世界の中から、それまで見えていなかった要素を切り出して名前をつける。検証しづらいけれど、それがないと問題そのものが認識できない。

SECIモデルは、明らかに後者です。「暗黙知」「共同化」「表出化」という言葉がなければ、「うちのベテランの勘をどう次に渡すか」という問題は、そもそも経営の議題になりませんでした。技を持つ人がいて、いなくなって、終わり。それだけだったはずです。

なので、この記事の判定はこうなります。SECIモデルは、反証された理論ではありません。実証されにくい種類の、思考の枠組みです。

ただし、この整理は批判①(定義のすり替え)には効きません。あれは予測が当たるかどうかではなく、語彙そのものへの疑いだからです。見るための道具こそ、言葉が正確である必要があります。ここについて現実的なのは、暗黙知を「変換できるもの」ではなく「一部しか言葉にならないもの」と読み替えたうえで、4つの目のつけどころだけを借りる、という使い方です。

この判定は、批判を弱めるためのものではありません。むしろ逆で、批判の使い道をはっきりさせるためのものです。思考の枠組みは、そのまま実行計画として使うと壊れる。次の章がその話です。

現場では、批判はこの症状で現れる

ここが一番現実的な話です。手がかりになるのが、2024年7月10日にダイヤモンド・オンラインに掲載された、野中郁次郎が監修した書籍『暗黙知が伝わる 動画経営』(著者:高橋勇人)による記事の一節です。

そこにはこう書かれています。業務のほとんどは身体動作を伴っており、動作を文字や絵で表現するのは非常に難しく、無理に表現した時点で多くの暗黙知が失われてしまう。

これは野中本人の発言ではなく、著者である高橋氏の記述です。野中本人の主張として扱うことはできません。ここで見るべきは、野中が監修した本の中でも「動作を言葉にすると多くが落ちる」という前提が共有されている、ということです。

この一文は、ツォウカス、シュライエッグ、大崎がそれぞれ別の言葉で述べてきたこと——表出化は原理的に不完全である——と、実質的に同じ現象を指しています。批判する側は「だから理論が成り立たない」と言い、実務を推す側は「だから動画にしよう」と言う。結論は正反対ですが、見ている壁は同じです。この一致を見つけたとき、この論争は学者どうしの言葉遊びではないとわかります。

批判4系統は、現場でこう見える

私たちは中小企業や事業承継の現場で、ナレッジ共有の仕組みが止まっている場面によく立ち会います。そこで起きていることを、4つの批判に対応させると次のようになります。

批判の系統 学術的な言い方 現場で起きること
① 概念(定義のすり替え) 暗黙知は原理的に言語化しきれない 表出化ワークショップをやっても、当たり前の話しか出てこない。「お客様第一」「段取り八分」で終わる
② 証拠(実証が弱い) 4モードに曖昧さのない証拠がない 「うちもSECIを回します」と宣言したが、何ができたら回ったと言えるのかを誰も定義できない
③ 後続研究(結果が揃わない) 同じモードが局面により正にも負にもなる 手順書を整えたら、かえって「言われたことだけやる」人が増えた
④ 文化(日本の文脈への依存) SECIは日本の組織文化に埋め込まれている フルリモートや短期雇用が増えた瞬間、共同化のフェーズだけがまるごと消える
②の派生(正当化=権威) 知識とは権限者が承認したアイデアになる 経営が欲しい知識だけがナレッジ認定され、現場が本当に困っていることは記録されない

一番よく見るのは、いちばん上の症状です。ベテランに「どうやっているんですか」と聞くワークショップを開く。出てくるのは「気を配ることですね」「相手をよく見ることです」。誰も嘘はついていない。手を抜いてもいない。それでも中身が出てこない。

このとき、担当者はたいてい自分を責めます。「聞き方が下手だった」「場づくりが甘かった」。しかし、そうとは限りません。ツォウカスが言うとおり、暗黙知は捕まえたり翻訳したりできず、行為の中でしか顕れないのだとすれば、言葉で聞き出そうとしたその設計自体に、最初から取りこぼしが織り込まれている。

もうひとつ、事業承継の現場で頻繁に見るのが、いちばん下の症状です。先代の判断基準を言葉にしようとして、出てきたものが「顧客第一」「誠実さ」だけになる。そして経営が求める形式に合わないもの——特定のお客様との30年の経緯、なぜあの取引先だけ条件を変えていないのか——は、記録に残らない。ゴーレイが「知識とは権威が承認したものになる」と皮肉ったことが、そのまま起きます。

批判を知っていると、打ち手が変わる

私たちは、理論が正しいかどうかより、それを現場に置いたときに人が動くかどうかを見ます。その視点でSECIの批判を読み直すと、打ち手が変わります。

**言葉にできないなら、言葉以外を残す。**手順書ではなく、実際の作業や商談の動画を残す。監修書が「動画経営」を提案しているのは、批判が指す壁をそのまま認めたうえでの回避策です。

**表出化を1回のワークショップで終わらせない。**言葉にした瞬間に失われる分があるなら、失われた分を取り戻す往復が要ります。言葉にする→やってみる→ずれる→言い直す。この往復が続く仕掛けを作るほうが、立派なフォーマットを1つ作るより効きます。具体的な進め方は暗黙知を形式知に変える実践にまとめました。

**共同化が消えていないかを先に確認する。**リモート化や世代交代で、一緒に働く時間そのものが減っていないか。共同化は、ゴーレイらの厳しい再検討でも数値上の基準を満たしていた数少ない部分です(もっともこれは「共同化が効く証拠」ではなく「質問のまとまりがよかった」という意味にすぎません)。それでも、批判が最も薄い部分が、現代の職場から一番先に消えつつあるのは皮肉です。

**誰が「知識」を認定しているかを疑う。**経営が欲しいものだけを集めていないか。事業承継の場面でこの点がとくに重要になる理由は、事業承継とブランディングで扱っています。先代の判断を言葉にする作業は、SECIの表出化そのものであり、だからこそ表出化への批判がそのまま実務の落とし穴になります。

導入の是非を考えている方は、次の3つを先に確認してください。

  1. **ベテランと若手が同じ時間・場所で働く機会が週に何時間あるか。**ゼロに近いなら、共同化は最初から使えません。SECIより先に、場の設計が必要です
  2. **言葉にしたものを試して直す往復が回せる業務か。**一度きりの文書化しかできないなら、マニュアル整備より動画やOJTの設計を先にしたほうが効きます
  3. **何を知識と認定するかを、現場が決められるか。**経営だけが決めているなら、集まるのは経営が欲しい知識だけです

批判を知らないと、うまくいかないのは自分たちのせいだと思い込みます。批判を知っていると、「そこは理論のほうが弱い場所だ」と切り分けられる。それが、この記事で一番実用的な部分です。

レポート・卒論でSECIモデル批判を扱う人へ

「SECIモデルを批判的に検討せよ」という課題は、扱い方を間違えると、ただの悪口か、ただの要約になります。型を先に置いておきます。

批判的検討の4ステップ

**1. 先行研究を紹介する。**SECIモデルが何を主張しているかを、批判の前に正確に書く。ここを飛ばして批判から入ると、藁人形を叩いていると見なされます。

**2. 争点を選ぶ。**4系統全部を扱おうとすると、どれも浅くなります。1つに絞ってください。おすすめは概念批判(暗黙知の定義)です。日本語文献(大崎、榊原)と英語文献(ツォウカス、シュライエッグ&ガイガー)の両方から追えます。実証面をやりたいならゴーレイ一本に絞る。

3. 自分の立場を書く。「批判にも一理あるが野中も正しい」で終わらせないこと。どちらの主張のどの部分を、なぜ支持するのかを書く。たとえば「暗黙知の定義については批判側を支持するが、実務上の枠組みとしての有用性は別に評価すべきだと考える」のように、支持する層と支持しない層を分けると論が立ちます。

**4. 限界を明示する。**自分の議論で扱えなかったことを書く。ここを書くと評価が上がります。

やってはいけない4つの誤り

文献の選び方

書誌情報(誌名・巻号・頁・DOI)は記事末尾の「参照した一次情報」にまとめてあります。争点別の入り口はこの表から選んでください。

文献 争点 日本語で読めるか 入手しやすさ
Gourlay (2006) 実証批判の本丸 有料(DOIから)
Gourlay & Nurse (2005) 事例・調査の解剖 Web上にPDFあり
Tsoukas (2003) 概念批判(英語圏) Web上に草稿PDFあり
大崎(2009・2017) 概念批判(日本語) 大学リポジトリで無料
榊原(2006) ドイツ語圏の論争の紹介 慶應リポジトリで無料
Glisby & Holden (2003) 文化批判 有料
Nonaka & von Krogh (2009) 野中側の応答 有料
Farnese et al. (2019) 測定の試みと限界 オープンアクセス(無料)

まとめ——地図としては有効、約束としては信じない

SECIモデルの問題点を一言でいえば、「見るための理論」が「実行すれば成果が出る手順」として流通してしまったことです。だから30年分の論争は、こう1行にまとめられます。SECIモデルは、地図としては有効ですが、約束としては信じないほうがいい。

地図としては有効、というのは、暗黙知と形式知という区別、共同化・表出化・連結化・内面化という4つの目のつけどころが、組織の中で何が起きているかを見るのに今も役に立つ、ということです。これがないと、ベテランの退職は「人が1人減った」としか見えません。

約束としては信じない、というのは、「この4つを順に回せば知識が生まれます」という部分を、実行計画としてそのまま受け取らない、ということです。その順序が回ることを示した定量研究は、確認できた範囲でまだありません。表出化と連結化がマイナスに効いた研究もあります。表出化は原理的に不完全だという指摘は、批判側だけでなく、実務側の対処(言葉で残せないなら動画で残す)とも前提を共有しています。

これは冷めた態度ではありません。理論に何をやってもらい、何は自分でやるかを分ける、というだけの話です。見るための道具として使い、うまくいくかどうかは自分の現場で確かめる。

もう一度、モデルそのものの中身を確認したくなったら、SECIモデルとはに戻ってください。批判を通ったあとに読み直すと、同じ図が違って見えるはずです。どこが強い部分で、どこが薄い部分か、線が引けているからです。

理論は、正しいから価値があるのではありません。それを持っていると、現場でこれまで見えなかったものが見えるから価値がある。そして見えたものをどうするかは、理論の外側の仕事です。

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